子どもの頃はそうでもなかったかなぁと思うのですが、特に体をこわしてから「同時並行で何かをすること」がとても苦手になって、例えば調子が良くない時は両手に何かをもっているだけでも胸が苦しくなってしまい、片方のものを離す(壊れそうにないものであれば、もう下に捨てちゃう(笑))ということもあります。
8年くらい前、ある大学の先生に「小池さんもそれ(発達障害)っぽいところがあるわけだから」と言われたことがありました。その時まであまり考えたことがなかったので、そうなんかと思う気持ちとどこか複雑…な気持ちがありました。
「いや、自分は普段発達障害のある方々の支援をしているのだから複雑な気持ちなど持ってはならん」という気持ちもあり、そう考えること自体変なんじゃないかという気持ちもあり、そもそもオレどうなんやろ、となんだかモヤモヤした心持ちでした。
結局自分が発達障害なのかどうか、といったことは診断も受けていないのではっきりわかりません。でも、今の自分にとって、その『名前』をつけることに意味があるのだろうか、とも思います。
例えば手帳を申請するときとか、会社に休職を願い出るとき、そんなケースであれば、やはり診断名というのは必要になると思います。また、子どもの頃から悩んでいた症状や状態に関して、診断名をつけてもらうことで「そうだったんだ」とどこか気持ちが楽になるなこともあるのかな、と思います。
また発達障害の方々との関わりについて講演する、とか「不特定多数の誰か」を対象にやりとりするときも、なんらかのくくり方が必要になるかと思います。
そういった場面ではなく、「今ここ」にいる自分や目の前にいるあなたとの付き合い方を考える時に必要なのは、
「その人はどんな環境で落ち着けるのか」
「その人が自信をもって取り組めるものは何か」
といったことではないか、と思うのです。
「その人が”その人自身”を乗りこなすうえで、どんな配慮があればいいのか」を丁寧に考えていく、ということが大切なのだろう、と思います。
支援現場にいたころは、どこか”専門家然”としてしまって(そんな知識もなかったのですが)、その人に『名前』をつけて(ラベルをはって)、そんな風にラベルを貼られている目の前の人の気持ちを考えることができませんでした。
体を壊してラベルを貼られる側になって気づいた、ということなのだと思います。そんな風に扱われる(と思う)だけで、気が滅入ってしまうことがあります。自分がそうなのだから、利用者さんにも同じことが起こっているんだろうな、と感じます。
施設、集団生活という特殊な環境だからこそ、「一人の人」として接することがより大切になってくるのだろう、と思っています。(小池)